昭和39年11月07日 朝の御理解



  親鸞上人様のお言葉のなかに、こう言う様な意味の事をいうておられます。「善人でも助かっておるのであるから、悪人ならなおさらのこと助かる」という意味のこと。善人でも助かっておるのであるから、悪人ならなおさら助かるという。悪人に於ておやということです。私は、天地の親神様のお心というのは、そういうものだとこう思う。例えばその悪人であってもです善人ではない、悪人であっても一心にいわば「ナムアミダブツ」に帰依すれば、いわばすがれば助かることができるのだ。
 善人ですら助かる。いわば神様が、いわば安心してござる。あの氏子はもう善人だから、そういうような「善人ですら助かっておる」。心配してござるところの悪人はなおさら助かる。神様が心配しておられるのは、その悪人のこと、けどそういう悪人でもすがるという、気になれば、尚助かることができるのだという。善人教祖の神様も、これは言うなら天地の親神様の「絶対愛」を言われたものでしょうね。
 教祖の神様は「信心してみかげのあるは不思議という真敷きものぞ、祈りてみかげの無いときはこれぞ不思議なことぞ」と教えられていられます。「お陰は絶対のものぞ」としていられます。信心さえすれば「お陰は絶対のものぞ」すがるという気になればお陰は絶対のものだ。ね。もしそのお陰の方があやふやになるようことであったら、これこそ愈々不思議なことぞとこういうてね。
 善人になって、終わらなければお陰を頂けんというのじゃない。先日からも申しております、神様に安心して頂ける氏子、神様に喜んで頂ける氏子にお取立て頂かなければならないということ。悪人でも一心にすがればおかげが下さる。それでも神様は喜んでは下さらない。安心はなさらない。そうですね。すがるからお陰を下さっておるのです。いうなら屑の子ほど可愛いという。
 その神情がお陰になって表れてくるのですけども、私どもが愈々信心に道を分からさせてもらい、教えによって私どもの生活が立て直させるとき、神様が安心してくださる。それは私どもが愈々本気で改まらさせて頂こうとこうその発願する。こげなこちゃいかん、これじゃいかん本気で改まらさせて頂こう、教えを元にして、というような気になったときに、その改まりができなくても。
 もうあの氏子は大丈夫、あれだけ腹を決めたんだから、本気で改まろうというておるのだからというて、安心がもうその安心が、こちらに返ってこないはずがない。限りなく美しくならせて頂こう、限りなく美しくならせて頂こうと、今夜はまず出さにゃいけんね、そういう美しい心に神様が喜び給うのです。二、三日前、福岡のご信者さんでイシキさんという方が参って見えた、お話を頂いておりましたら久留米のササイさんという、総代さんがおられます。
 しばらくに、もう妹さんに当たるそれで母の信心で、福岡のあちらの二日市におられる。あちらにご縁でお陰を受けておられる、もう本当に私の兄の家は、もう御用一家でございますというてはなされる。それはもう皆さんは、お話を聞かれたことがあるかどうか知りませんが、久留米市のササイさんと言いゃ本当に、一にも御用、二にも御用、言われる方なんですね。
 信心が進むとか信心が進んだとかいうけれども、去年も百円のお供えしょってから今年も百円のお供えしか出来んなら、それはいっちょ信心は進みよらんじゃないか、そういう表現をなさる方なんです。理があると思ですね、ましてやそんなら十年も信心しょって十年前も百円しかお供えできんのに、十年の今日もやっぱり百円のお供えしか出来よらんなら、それはいっちょそれは信心は進みよらんじゃという風に言われる。
 信心が進みやお陰も大きゅうなる、おかげも大きゅうなれば、御用も大きゅうできるはずだというわけなのです。ね。ところがその今度は奥さんはまだまだだ、今度うちがまあね二、三年前のことでしょうか、先妻が亡くなられた。その後にちょうど半分ほどしだそうですね、もう嫁さんも貫われた、全然信心のない兄でございますけれども、やはりその主人の信心にやはり帰依してですね。
 愈々金光様のご信心を、お道の信心を御用なりというよな、あり方でもう真剣にそのクシハラの教会で御用ができれる。お父さんあんたから小使ど貫うちゅうてからとても、御用はできんから、というてですね、自分でお陰を頂きなさる、先生もうこの人はもう、不思議な人で、私どもが参りましても、実に行き届いておる嫁でございます。ね。そして姉さんもとにかく、金光様の信心をする、御用ができなけりゃ。
 助かりバッセンバイちゅうてから、私にそれ古い、私にそういうてくれる、話を聞けばなるほどそうだ、心が美しいね。さあお月次祭ださあ大祭だと、いう時にはちゃんと自分の心が騒ぎだす。今度の御大祭には、これこれを、お供えして頂きたいというて、やはり手ぶらではお供えできんから、神様にお願いしてから、株を探す。総あさりです。神様にそのことを一心に、お役に立ちたい。
 お役に立ちたいと思うて一心に、すがっておると、神様が必ず夢の中でも、お知らせくださるそうです。ハアーお陰を頂くですから、お家で御用をされながらでも、ラジオの相場の上がり下がり、ここにちゃんと持っていつも聞きよりなさるそうです。ね。皆さん私が御用ば頂きたいと言うて一生懸命に思うていると、愈々さあもうじきぞさあ、買えていう時には、必ずお夢の中で鯛がビチピチこう飛びはねしよるところを頂く。
 もうそげんな時から、必ずおかげを頂きますが、姉さんといいなさるけん、私が申しました。貴方が自分の私用だんすなことしさんな、本当にお役に立ちたいと、もうその例えば、よくその人がありますよ。百万円宝くじに当たらさせてくださいね。その半分を神様にお供えしますからと、そんなことでは、おかげを頂かれないということ。お役に立ちたいという一念を出す。
 例えば相場でも株もされて、それは私はあの最後まで聞いて頂かんにゃ分からんですけどね。所謂本気でお役に立ちたい、しかも自分の身持のためではないところにですね。神様は夢の中にでもお知らせくださって、それを実行されると、必ずおかげが頂いてその金額ことなんか、いうておられましたが、それこそ女でもびっくりするような、御用の頂かれ方だそうです。
 それで主人の、所謂ササイさんには、そのことを何にも御用を頂くから、いくら下さいということを、いわんで済むというて申しますと、こういわれるね。ですからこれは私は神様がお役に立ちたい、お役に立ちたいという一念をその、美しい心を見届けてくださる。喜んでくださる。喜んでくださるのが、そういうことになって、表れてくるのじゃないかと思いますね。けれどもさあ、これではね。
 神様は安心してくださらんのですよ。ね。安心してくださるというのは、どこまでもやはり、私どもが本気で改まろう、ごげなこちゃいけん本気で改まろうというそのことに、発心さして頂くときにです神様が安心してくださるのであり、限りなく美しくならして頂こう。自分の身欲のために、例えばササイさんの場合なんかそれでいて、それでいて、自分の身のツケタンの如くじゃない。
 神様の御用のために、そうされているのに、いくたんびに店が美しくなっていきよるますからなあ。今の店は、それからその、汚い心ではない。そういう美しい心でもってするならば、神様が思いがけないところに、おかげを用意しておって下さる事が分かるですね。昨夜私はご神前に出させて頂いたら、ご神前でこういうようなお知らせを頂いた、歌舞伎芝居にあの「ゴサンノキリ」というお芝居があります。
 木下藤吉朗と石川五衛門の出会いのところです。あの楼門の上に立ってからね、石川五衛門が「絶景かな絶景かな」というところです。その絶景かな、絶景かなのという前にですね。大きなどてらを着て、大きなキセルを盛ってね、こうして決まる場面があるです。そのすばらしい見事な見えを切るところがあるんです。その場面を頂くんですね。そして、次の理解を頂いてあってから、ハアなる程と私は思うのです。
 昨夜、こういうような、御理解を頂いたんです。意地が悪という人があるでしょうがね。まあこの歌舞伎でそのミタキでいうならばですね、忠臣蔵で言うならば、モノノのごとくである、コウノ所謂吉良上野介ね。自分の地位を利用する。自分の思うようにならんと愈々意地悪、意地める。それが定まってくるとみゃあ、それこそムガというて教えるね。カガミアのヤフジなんかでもそうですね。
 自分が上役であるということのために、所謂自分に気に入らんことは、その意地めぬくというようなそいう、今様いうならモロノというか、今様イワフジといったようなものがあるんですよ。もうとにかく、あの目つき、意地の悪い目つき、意地の悪い態度、そばによりつかれんね。意地が悪い意地が悪いという、その根性が悪いと、根性というのではない。根性はなしで、意地悪かしの人がおりよるね、これは愈々いかん、根性というのは有難いです。
 最近根性、根性ということが言われます。根性で例えば勝つ抜く、根性でお陰を頂きます。という人がありますね。それはだから根性を持たなければなりませんけど、意地が悪てはいけません。というような御理解だったですね。そして何故意地が悪ったらお陰を受けられんかということを頂くです。何故意地が悪かったらお陰が受けられんかというて、御理解百節、九十九節、九十八節、この三つを最後に頂くんですね。
 みなさんちゅうに覚えておられますまいから、申してみましょうね。御理解九十八節、心は神信心の定規じゃによってという、あの御理解があります。「心は神信心の定規じゃによって、ね。神様に打ち向かう時には、とりわけ平気な心になれ」とのいう御理解です。どうでしょうか、自分の心の中に、いわば意地の悪い心やらがあってから、平常心が頂けるでしょうか。平気な心になれるでしょうか。
 神様に交流ができるでしょうか。自分でこんなに根性の悪い自分と、思うならば神様に、向かわれるでしょうかね。分かるでしょうが、意地が悪かったら、もうそこにすでに心は、信心の定規じゃと、神信心の定規じゃとおしやっとるのに、その心でお陰のところに、さしあて計って見て、おかげの頂かれんこれじゃおかげの頂かれん、はずじゃというしか、生まれてこないはずです。
  御理解九十九節「無学で人が助からんということはない」ね。学問があっても、その学が身を食うということがあろうがと、こうおっしゃる。此の方は学問がないけれども、人が助かっておるという御理解があります。学がなからなければ、おかげは受けられんということじゃない。学がなくても、無学でもおかげが頂けれる。真があればおかげが受けられるということね。
 学が身を食うということがあろうが、切角、学問身につけた。その学問がかえって身を食う。私はこの場合ですね学というのは、学問のことではない。人より秀てさまざまのことできれるということを、指していられるとこう思うのですね。私の知っておる先生から聞かして頂いたのですが、この先生はもう実に何からかに、実に万端できよなさる。近所の先生方は、祝詞を書くとも、その先生に頼みにきなさる。
    タチものなんかも、とても上手ですからその人に尋ねきなさる。ところがチョツトこの人は見かけはよかバッテン意地が悪いね。そしてもって行くと具合がえゝ、わざわざ自分がいってからも指導されるけど、でなかったら、とても本当にそれこそ御本部の参拝のときなんか、この先生のためにいじめなかれた先生があります。ですからそういうような意地悪い人のところでは、決して人は助からんですね。
 神様と交流せんです。してみるとその先生の場合、自分のいろんなことができれるということが、めぐりを汲みよるわけでしょうが、私は今日の学問を身につけていかんとか、なにがいかんことじゃないです。そのうえ例えばもう知ってとるなら、求めてくるならばもう本当に、こうやってその、出したがらないおられない人があります。ちょつとしたクラスが尋ねると、いや私なんかできませんというて、もうとにかく教えをしょうとしない人がある。尋ねられると、本当にバカごと教える人がある。
 あれは、意地の悪か。意地の悪かの表れです。もう私が出たらといぅて、どうぞというて、出してやる人がある。知っとちゃ心の中で、笑いながら教えてやらん人がある。それがそのもってくると、機嫌がよしできてね。なるほど重宝がられます。いろんなことを、知っとるから、けどそれでは、いわゆるその知っとるということが、かえって身を食うことになるのです。
 折角、自分が勉強したその勉強したことが、例えば学問なら学問が、「学が身を食うということがあろうが」とこうおっしゃる。此の方が無学でも、いわば何にもできんでもなあんにも無器用できない、けれども人が助かっておるという。私のほうの場合でも、それなんです。なあんにも出来ない。何もできんけど人が助かっておるそういうような、御理解を昨夜頂きました。
 だから意地の悪い事について、色々例を引いてからのお話でありますからね。例えば御理解九十九節の中から感じ取らせて頂く事ね。学が身を食う様なと言う事は、意地が悪右手は置け下は受けられないと言う事を、九十九節で教えしておられるとこう思うのです。最後に百節「めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁れるというではないか。金光大神は家繁盛、子孫繁盛の道を教えるのじゃ」というて居られますね。
 私どもの心の中に意地の悪い心があってです、例えばそのうちご祝儀が、ありよってもその人は、本当に目出度い、目出度い心になれるでしょうか、決して神様は許されません。意地の悪かったらね今日は、目出度いはずなのに、その人の心の中は、目出度くないです。根性の悪い心で、満たされておるです。ね。私どもの心が、所謂、目出度、目出度というような心にならなければ、家繁盛、子孫繁盛の道と分かりませんです。
 まだそういうお陰を受けられないんですね。福岡の吉木先生なんかは、毎朝御理解をなさる前に、ご祈念が終わって御理解なさるのに「皆さんおめでどうと言われる」そうですね。善導寺の親先生なんかも、お月例祭のたんびに、御説教台に立たれたら「皆さんおめでどうございます」。と言われる出す。私どもはそれがまだ、言えんごとに、心の中が目出度くないということ。
    本当をいうたら、やはり日々目出度いという心、自分の心の状態が、そうなかならんのでしょうけれども、自分の心の中に意地の悪い心があって、目出度くなれるだろうか。この御理解三節をですね。引いて意地が悪うでは、こうお陰が受けられんのだ。こう神様とは交流せんのだと言う、その御理解だったんです。タベは、けど意地が悪うても、根性が悪うてもです。
    要するに悪人あってもですね、要は悪人に於ておやであり、善人ですから助かっておるのであるから、悪人はなおさら助かる。悪人がひとたび、神様にすがるということ。気になれば南無阿陀仏に帰依すれば、いうならば、お取次を頂いて、身がたとえば空く陣だろうか、泥棒であろうがです、石川五衛門ごとあろうが、助かれるんだと言うこと。けれども、石川五衛門も助かろうけれどもね、石川五衛門が一服するということになったら、もう自分が身捨てられなければない。
    信心だということだった。このお知らせはね。根性が悪い意地が悪い。悪人そういうような人でも、すがればおかげは頂けれども、すがるということを止めて、一服しだしたらたい、その外にもうこうおかげを落として、しまわなければなりません。もう見捨てなければならない。いわば信心があるんだ、これではつまらんでしょうが、ね。いわゆる神様に喜んで頂けるだけでおかげを頂いた。
 頂けた人が、神様に喜んで頂けなくなったら、もうおかげは頂けんですね、ですから御用でもさせて頂いておる。御用精神が非常に強いおかげを頂きたい、おかげを頂きたい、一念だけでもおかげは頂けるけれども、そういう一服しだしたら、おかげはもう受けられないということ。先代のときは、大変御用ができたんじゃけれども、さあ御用できんごとになったら、スポット信心も落ちるだけでなくて。
 おかげを落としておる例が多くさんありますでしょうが。いわゆる御用だけではだから行かない。喜んでもらうだけではいけないということ。先ず神様に安心して、もらうところの、信者氏子にお取立て頂かなければ、ならんということ。昨夜、丁度ご祈念半ばに熊本の岱明の先生がお見えられて、タベ泊まって今朝ここでご祈念を頂いておられます。でしたから、ここに座らせて頂いてから一杯差し上げながら。
 丁度十二時過ぎまで、ま色々と道の上の話なんかさせて頂いたんですけれども、どうでもひとつ、折角、椛目に通って見えるのですから、ね、おかげを頂いてもらわんならんと。それが私が教団のいうなら、全教一家、全教一新というような、願いにです、それが成就して行くことの、ことになっていかなければならないと。いうならば、椛目の神愛会はです、いわばその、甘木の関係であろうが、福岡の関係であろうが、久留米の関係であろうが、もう言わば全国の、本気で信心を求める。
 道を求めてくる人達が集うてです、今まで分からなかったことが、わからさせて頂いて、そっから銘々がおかげの」頂けれるところの、おかげの頂ける場に、椛目がならなければいけないと、いったようなことを、話をしたんです。ですからそのあみさんがやすまれてから、私、御神前に出させて頂き、そんなこと思わせて頂いたらですね、「そういう願いではいけん」と神様から頂きました。
 椛目がですね、椛目神愛会が、全国から集まって信心を求めてくる人達の、だれに気兼ねもなしにです、集まってこれれるようなおかげを頂かなければならない、ためには、もちろん私の信心が愈々そういう人達に対して、与えれるだけのものをです、頂くということは、大坪総一郎はできませんから、ここにどうでも必要なのは、神の知恵です。勇気です。元気な心です。決断力です。同時に力です。
 いうなら桃太郎さんのごたる。さっきのような意地がなくて、所謂、気はやさしくて力持ちということに、ならなきゃいけないです。でなかったら教団にはびこっているところの、鬼征伐はでけんということ。神様の願いはですね、ここに集うって、皆さんが信心の稽古をなさるということは有難いけれども、それだけが目的じゃない。鬼征伐が目的だとおっしゃいました。昨夜は。
 鬼征伐とはどういうような事かと。愈々教団の中にです、おかげの受けられないガンがあるということ、元があるということ、ね。例えば最近クボタのカンノ先生が見えられなくなった。話を聞いてみると、さまざまな関係があるわけなんだ。第一親教会との関係があるというわけね。例えばほんなら、他の信者さんかたやら、教会の先生かたがお参りになるという、それは気兼ねしもって参ってきておられるということ。
 それはこちらの信心不足なんですけれどもです。気兼ねなしにこれれるようなおかげ、ね。それには私が、ここ二、三日お話を申しましたように、金光教的迷信の打破ということです。金光教の精神、金光教は迷信教ではないということが、お道の信心の看板なのですけれども、内部的に迷信が出来ておるということです。はびこっておるということです。道を間違ってはおらせんか、道を間違えたら御陰を落とすぞ。
 と言った様な迷信なのです。道を間違えたじゃない。信心を求めてここにきておるのに、道を間違えたとこういう。そういう迷信が先ずいくらもあるです、教団の中にそう言う様なものがです。まあ多分○○の場合、おかげを頂かれておられるけども、甘木関係です、ね。その親教会のまた親教会と言った様な、あら谷口先生は椛目に行きござるげな、と言う様な事を言う者を成敗しなければならないということです。
 そのまいっちょ向こうにガンがあるということです、神様の願いというものは。いよいよ私は、力は受ければならんな、いよいよ神の叡智に触れていかねばならないなと思う。ね。いよいよ決断力が必要だなあと、ね。いよいよ私がおかげを頂いて行かなければならんなあと、いうことはです。椛目でご神縁を頂いていられる皆さんがです、本当におかげを受けなければ、ならないということなんです。
 みなさんがそれを、実証して下さらなければ、ならないと言う事です。椛目の信心はこんなに間違いのないのだと言う事を。ただ御用できるから助かっておるのじゃない、一生懸命お参りしたけん一生懸命拝みよるけん、助かるとじゃあない。神様に安心してもらい神様に喜んでもらい、ね、しかも道の教えを基にしてこうおかげを頂いておるというおかげをです。皆さんが実証してもらわなければ、いけないということ。
 私が神様の知恵をもってです、どんなにすばらしいお話をさせて頂きましても、その理を解き明かしましてもです、ね。それが椛目自体が助かっていなくて、これを一般に、これを見て下さい、こういうおかげが受けられるんですよということが言えないんじゃあ、お陰にはならんということです。「信心しておかげのあるを不思議というまじきものぞ、信心してみかげないときはこれぞ不思議なることぞ」と。
 いわば神の絶対愛をそういう風に表現しておられます。親鸞上人様が言われた様に「善人すら助かっておるのであるから、悪人に於てをやじゃないか」とこの神様は、ね、そういう悪人でも救わなければおかん、助けずにおかんという思いを持っておられるのであるから、それで悪人でも「助けてください」という気になって「南無阿弥陀仏」に帰依すれば悪人でも助からんことはないのだというておられる様にです。ね、
 けれどもそういう助かりだけでは、いわゆる石川五衛門がどうぞお願いしますといって、助かったようなものであるからおかげにはならん。先ずは私どもの心の中から意地汚い。本当にあの人は意地が悪いと言われる様なものをです、自分でも気付かしてもろうて、それを取り組んで、おかげを蒙っていかなければいけない。いわゆる「気はやさしくて力持ちの」桃太郎さんのような信心にならんにゃいかんということ。ね。
 そして神様の本当の願いであるところの、ここに皆さんが集まってです、皆さんが集うて、全教一家、全教一新して、全教一家的なことに雰囲気というものか、おかげというものが表れてくるようになって集まってくると。それで有難い。それだけじゃない。そういうような集まってくるようになると、必ずそれを阻害するものがある。それを障害(?)なものがある。だからその障害になっておるそれが、金光教的、私は迷信だと言うておる。その迷信打破のためにです、椛目はどうでも、私をはじめ皆さんが力を受けなければならないのであり、元気な心を出さなければならんのであり、ね。
いよいよどこから見ても、横から見ても縦から見てもです、これが本当のものなのであるというおかげを表して行かなければいけないということになるわけなんですよね。おかげ頂かれ(?)